クラフト~忘れられない記憶・7

出先の病院から岡山に帰りはしたものの、
一時間仕事すると、
一時間寝込むような日々が続いていた㍻23年3月11日、
宮城県沖130㌔を震源とする東日本大震災が発生します。

4か月経ってもなかなか体調は戻らず、
50代を生き抜く自信さえ失っていた僕は、
ベッドから眺めるテレビの映像で震災のことを知ります。
自衛隊の現地入りに続き、
日を追うごとに集まるボランティアの懸命な姿を見ているうちに、
それまで奉仕活動で身を粉にしたことがなかった自分でも
必要とされるならば(当時は「生きてる間に」と思ってました)、
手仕事の品で被災地復興の役を担いたいと思い始めます。
すぐに地元の作家や
ギャラリー店主にも相談を持ちかけ、
賛同してくれた人たちと立ち上げた
「岡山から被災地に手仕事を届ける会」。

そのうちのメンバー2人が、
先に気仙沼に出向き、
現地からの要望を聞き、岡山の作家に協力要請を案内します。
その要請に応えてくださった
県内の作家95名から届いた作品(790点)を持って気仙沼に。


                                                                                                                (三陸新報より)

現地での人との新たな出会いから、
夢を失いかけている気仙沼の子供たちに、
未来への希望が持てるような取組みはできないでしょうか?
と相談され、
岡山と被災地の子供たちをハートで繋ぐワークショップも
計画に加えます。

岡山市立芥子山小学校の6年生に、
岡山の県木(マツ)でハートの片割れを削ってもらい、
気仙沼(同学年)の子供たちに向けて
メッセージカードを書いてもらいます。

2012.10月、
気仙沼市立新城小学校での公開授業。

宮城の県木(ケヤキ)を用いて
もう一方を削ってもらい、
磁石でメッセージカードを挟んだ「ウッドハート」完成させます。


子供たちの心をひとつに結ぶかたちに願いを託し、
岡山と気仙沼の未来を繋ぐ試みでした。





「岡山から被災地に手仕事を届ける会」の主な活動内容
2011.   6       会の設立
                 .   9      実行委員をかねる作家の作品30点を気仙沼に持ち寄り現地調査
                 .10     被災地からの要望を受け、県内の作家への呼び掛け
                 .11     実行委員をかねる作家7名のチャリティー展、売上全額を活動資金に
                 .12     手仕事の  品790点(作家95名分)を気仙沼に届ける
 2012 .    3     活動報告会
                              被災地から岡山に避難された方々に手仕事の品を届ける
                .     8      被災地から岡山に避難された親子対象のワークショップを開催
                 .   9    岡山市立芥子山小学校での「ウッドハート」ワークショップ
                  .10   手仕事の品を気仙沼に届ける(3回目)
                             公開授業(気仙沼市立新城小学校)で、「ウッドハート」を完成させる
                  .12   活動報告会



現地に赴き、
津波で家族を失った人たちからの生の声を聞いているうちに、
「(震災のことを)忘れないでほしい」という思いと、
「家族の死を忘れ(受け入れ)なくては生きていけない」といった
深い悲しみに苛まれている当事者の心境を告白され、
僕たちは言葉を失いました。
岡山に帰れば、
「震災のことを忘れてはいけない」を訴える言葉は溢れていたけれど、
「忘れなくては生きていけない」と自分に言い聞かせながら
懸命に明日に向かおうとしている人たちのことを思うと、
軽はずみに支援を続けることばかりを訴えていていいのだろうか?
と思うようになるのでした。

(つづく)

クラフト~ 6(岐路)

「50を過ぎたら、無理するな」

入院は勿論、大病すら患ったことのない僕は、
諸先輩方からの忠告に耳を傾けることもなく、
個展を前にして明け方まで漆の仕事を続けていたのでした。
フラフラするのはいつものこと。
初日を終えたら、ゆっくり休養でもするつもりだった出先のホテルから、
まさかの救急搬送・・・
「血圧低下」
「脈が取れなくなりました」・・・救急隊員からの報告と
大きな声で「足をあげろ!」と指示する隊長の言葉だけが脳裏に焼きついています。

ホテルで目覚めた時、
これまで経験したことのない体調不良で起き上がることができず、
ベッドからフロントに電話。
もしその時、
電話していなかったら、僕は生還できていなかったと思います。
幸い、救急隊員の素早い処置もあり、蘇生した僕の心臓・・・

病院に着いてからの(意識が戻ってからの)様子は、
今でもはっきり覚えています。

              (診察医との会話)

診察医 「心臓はもう大丈夫そうです。入院の手続きをしましょうか」

木工    「何ひとつ保証のない仕事なんで、 入院したら僕は明日から生きていけません!
              自宅療養しながら仕事を続けます。病名だけ教えてください」
           
診察医 「心臓が戻っていなかったら、過労死ですかね」

木工    「過労死って、モーレツサラリーマンの病気じゃないんですか―!」(叫ぶ)

診察医 ・・・(あきれ顔)

51才の時でした。

たった、数秒?(数分?)
心臓が止まった?(止まりかけた?)だけで、
思っていたように体調は戻らず(無理を承知で仕事も続けていたので)、
51才にして、計3度の救急搬送を経験するはめに(常連さん・笑)

その後5年間、この僕が一滴もお酒を口にできなかったのですから、
むしろ そちらの方が心配でした。
(その頃出会った人は、今でも僕が下戸だと思ってるかも?)


(彫刻作品)「岐路」   
                        右も左も選ばず、  地下に降りてでも真っ直ぐ進む

生還して以来、死ぬことが全く怖くなくなった僕は、
「どうせオマケの人生を生きるのだから、やりたいことだけはやっておこう!」
と、益々楽観的になり、
最後の最後まで残ったのが言葉だけだった体験から、
木工をパンセ(短章)に書き留め、
発表し始めます。 (つづく)























クラフト~遠い記憶・5

中国山地で伐採される小径木の広葉樹を活かすために、
木工ロクロを始めたのも、工房移転してからです。

信州時代は、
小さな鉋(かんな)で木を掘りこむ「刳(く)りもの」
と呼ばれるうつわを作っていましたが、
やり出すと 止まらなくなる性質がアダを討ち、
およそ半年で指が動かなくなり、
「腱鞘炎」と診断された苦い経験もあったので、
岡山では木工ロクロを独学。

漆芸界の大家・多摩美の名誉教授(高木晃先生)から、
「簡単な漆なら、直ぐできるから自分でおやりなさい」
と薦められ、「はい」と即答。
翌日から漆を塗り始めます・笑





ちょうどその頃、
地元(岡山や倉敷)の建築家との交流が深まり、
毎月のように工房に集まっては、
うつわから建築空間に至る様々な話題をつまみに
お酒を囲む仲になっていました(夜明けまで語り明かしていたっけ・笑)

住宅を設計するだけの建築家は、
僕の工房には寄って来ませんが、
住宅と生活を愛する建築家は、
家具やうつわ使いも見据えて住宅を設計されるので、
互いに引き寄せられ、ひとつの空間を連想できます。

建築家からの図面を起こすだけでなく、施主の密かな要望に
応えるのも、木工の仕事?です。
(事例・1)

 「 家具のようなキッチンを」と依頼されたクルミのキッチン


ダイニングテーブル用のベンチを
軒先に出せば、

   寝椅子&オットマンとしても使えます。




(事例・2)
 客人の多いおうちからの要望に応えて

                 通常は、4人掛け用のテーブル

  2~3人の客人の折には、テーブルを延長し、

 6~7人掛け用のテーブルに。

 さらに大人数の集まりの際は、

窓のサイズに合わせて作ったコレクション棚の前に
テーブルを移動させ、棚がベンチに早変わり。
9~10人でテーブルを囲みます。
(コレクションの品は、引き出しに収められます)



(事例・3)

「シェーカー家具のようなキッチンを」



(事例・4)

「ボーエ・モーエンセンのシェーカーチェアにあったテーブルを」



(事例・5)

「食卓を囲む家族それぞれの椅子」



(事例・6)

「屋根裏部屋をパソコンルームに」


建築家の思い描く空間を邪魔しないように、
施主の要望に応えるという
ちょっとした工夫が試されます。




2004年、親しい建築家のひとりを、
                      クラフトフェア松本に誘ったことが呼び水になり、
2006年、「第1回フィールドオブクラフト倉敷」の立ち上げに関わります。




    46才の時でした・・・

                                   
                                     (つづく)






























クラフト~遠い記憶・4

信州で木工を学び、
手につけた職だけを頼りに帰郷。
生まれ育った家の前の
崩れかけた納屋を一年かけて改装します。

岡山への工房移設を機に掲げた「原点回帰」の旗。

自分らしい家具を探求すればするほど、
作り手としての「我」が出てくる感じも嫌だったし、
自己表現を意識すると、
「名を売りたい」という欲まで付いてくることがスケベったらしくて
(情けなくて)・・・

欲に駆られず、仕事に永遠性を求めた
シェーカークラフツマンシップをもう一度学び直そうと
原点回帰の旗をあげ、
仲間を集い、
「シェーカー様式に学ぶ」という企画展を岡山と倉敷で発表します。

その取り組みに関心をいだいてくれた
住宅誌の編集長からの依頼で、
2006年発売の
「住む」17号(特集・誠実なデザイン)に
10ページの記事を寄せました(表紙が工房です・笑)
それまで、
雑誌に掲載された作品が売れることなどありませんでしたが、
「隠れシェーカーファン」なる人たちが大勢いるのか?
発売と同時に工房に注文が殺到し、
約1年半、その製作に追われます。

その後、大阪と東京のギャラリーから
「シェーカースタイル展」を依頼され、





大阪・Saji展では、

シェーカー家具への思いのたけを
10篇の物語に書き留め、
小冊子にまとめました。










東京・而今禾 展では、
シェーカーのモノづくりに関心を寄せる
異素材の作家にも参加してもらい、

普遍性を帯びる生活用品を具現化。
イラストレーターの平澤まりこさんには、ペン画で
シェーカー教徒の暮らしぶりを描いてもらいました。(会場の写真を撮る平澤さん)


シェーカーの家具や生活具をあらためて連作することで、
作り手の精神性(craftsmanship)が  モノの形に反映される怖さを再認識し、
自らの欲の前に、
使い手に身を尽くす手仕事の意義を考え直す機会になりました。

これを機に、
僕のモノづくりも、
「使い勝手」の伴う必然性に満ちた美を求め、大きく舵を切っていくことになります。

                     
                                   (つづく)



クラフト~遠い日の記憶・3

初個展は、倉敷のギャラリーでした。

片道の旅費しか持ち合わせていなかったので、
何も売れなければ、
木工を辞める覚悟で倉敷に向かった車中での気持ちが甦ります。


初日に出向いてくれた組み木作家・小黒三郎さんに誘われるまま、
ギャラリーから歩いて直ぐのアトリエで
小黒さんの手料理を囲み、ワイン片手に
大御所の意見を聞けた日の歓びは、今でも忘れられません。

小黒さんには、デザイン論だけでなく、
工芸界の「雲の上の人(作家)」を囲む席に誘ってもらったり、
全国各地のギャラリーを紹介してもらったり、
その後も多大なる影響を受けました。


その頃、松本では
審査によって選ばれる従来型の公募展と距離をおき、
使い手が、
好きなものを 堂々と「いいモノ」と言える
クラフトフェアが話題になり、
「権威なき屋外展」として注目され始めていました。

まだ自立型のテントがない時代だったので、
雨が降ってきたら、避難していたような記憶が・・・笑

「無審査ゆえ優劣はなく、選び出すのはクラフトフェアを訪れた一人一人の感性」
審査員が美を指南する保守的な工芸展へのアンチテーゼもあったのか?
経歴を並べ立てる作家もなく、
使い手の目を信じ、
作り手と使い手が肩を寄せ合う光景は、
会場を吹き抜ける風のように爽やかに、工芸界に新風を巻き起こしました。



                信州時代に製作していた家具の写真
                                          ↓

久々に見ると、
懐かしいなぁ~~~
(30~35才頃の作品です)







木工の世界に足を踏み入れ、
「職人は10年で半人前、20年で一人前に育つ」と教えられ、
当初2~3年で一人前になれると思っていた夢も崩れ、
10年間(一人前になるためのスタートラインまで)は、
信州で続けていこう!と覚悟します。



スキーとの二足の草鞋を履く余裕など ないことに気づくのでした。

                 
                   (つづく)






プロフィール

HN:
山本美文アトリエ
性別:
非公開

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