クラフト~遠い日の記憶・ 2

26才の時 移住した白馬で 知り合った松本のカフェ店主から
紹介された大工やステンドグラスの作家らと親しくなり、
「木工を学ぶなら木曽の専門学校にいい先生が居るから、そこに行きなよ」
と薦められるままに、長野県立上松技術専門校(木工科)に入学。

その頃は、「冬場はスキー、オフシーズンに木工」くらいの甘い将来図を
思い描いていたのかもしれません・・・

専門校時代に習作した
シェーカー様式の「ラウンドテーブル」

  模写することはできたものの、
  当時、シェーカー家具の持つ
※必然の形  を読み解く力はありませんでした。

                   ※カメラの三脚同様どんな場所に設置しても 安定する三本脚。
                   (蝋燭から 火災を防ぐための知恵)
                      脚のアールは、 
                      シェーカー教徒が清掃時に使う箒(ほうき)が入り易いデザインに。
 
                      単純な形を「シンプル」と敬称されがちですが、
                      必然性に導かれる真の意味を確かめるためにシェーカー家具を習作。


冬はスキー場、
夏は木曽駒ケ岳(中央アルプス)登山口にある山荘で働きながら、
何とか一年間の学校生活を終えたものの、
現実に直面する僕を待ち受けていた極貧生活。
専門校を出たとはいえ、
半人前にも到達していない腕前ゆえ、
直ぐに家具の注文など入るはずもありません。
(なのに独立?)       なりは貧乏でも、
                                    心晴れやかに生きることって、
                                    本当にできるのかも試してみたかった・・・

(おかげ様で貧乏まで怖くなくなり、いまだに続けております・笑)

標高1000ⅿ、
冬は氷点下20℃になる「ポツンと一軒家」で、
春の山菜、秋のきのこ、
夏は畑を耕し、
冬は保存食で生き抜き、
時折、心配する母親や友人から届く電報で
生存確認されながら、
手持ちの手道具で自宅で使うための小物を連作していたのでした。

情報を一切遮断した寒村での空白の時間(約1年半の年月)が、
ぼくには必要な時間だったのかもしれません。
電話も新聞もテレビも(もちろんパソコンなど)ない生活だったけれど、
豊かな自然に囲まれた森での暮らしは、
高度成長期以降の情報過多による弊害⇒流行過敏の「たが」を外すための
(木工家を志すための)準備期間だったようにも思えます。

半自給自足の生活を続けるうちに、
部屋に収まりきらないほどの作品がたまり、
置場に困った僕は、
次の作品を置くための場を空けたい!と、
無謀にも、個展を妄想し始めるのでした。

30才の頃です・・・
                       
              (つづく)

















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