クラフト~遠い日の記憶・3

初個展は、倉敷のギャラリーでした。

片道の旅費しか持ち合わせていなかったので、
何も売れなければ、
木工を辞める覚悟で倉敷に向かった車中での気持ちが甦ります。


初日に出向いてくれた組み木作家・小黒三郎さんに誘われるまま、
ギャラリーから歩いて直ぐのアトリエで
小黒さんの手料理を囲み、ワイン片手に
大御所の意見を聞けた日の歓びは、今でも忘れられません。

小黒さんには、デザイン論だけでなく、
工芸界の「雲の上の人(作家)」を囲む席に誘ってもらったり、
全国各地のギャラリーを紹介してもらったり、
その後も多大なる影響を受けました。


その頃、松本では
審査によって選ばれる従来型の公募展と距離をおき、
使い手が、
好きなものを 堂々と「いいモノ」と言える
クラフトフェアが話題になり、
「権威なき屋外展」として注目され始めていました。

まだ自立型のテントがない時代だったので、
雨が降ってきたら、避難していたような記憶が・・・笑

「無審査ゆえ優劣はなく、選び出すのはクラフトフェアを訪れた一人一人の感性」
審査員が美を指南する保守的な工芸展へのアンチテーゼもあったのか?
経歴を並べ立てる作家もなく、
使い手の目を信じ、
作り手と使い手が肩を寄せ合う光景は、
会場を吹き抜ける風のように爽やかに、工芸界に新風を巻き起こしました。



                信州時代に製作していた家具の写真
                                          ↓

久々に見ると、
懐かしいなぁ~~~
(30~35才頃の作品です)







木工の世界に足を踏み入れ、
「職人は10年で半人前、20年で一人前に育つ」と教えられ、
当初2~3年で一人前になれると思っていた夢も崩れ、
10年間(一人前になるためのスタートラインまで)は、
信州で続けていこう!と覚悟します。



スキーとの二足の草鞋を履く余裕など ないことに気づくのでした。

                 
                   (つづく)






クラフト~遠い日の記憶・ 2

26才の時 移住した白馬で 知り合った松本のカフェ店主から
紹介された大工やステンドグラスの作家らと親しくなり、
「木工を学ぶなら木曽の専門学校にいい先生が居るから、そこに行きなよ」
と薦められるままに、長野県立上松技術専門校(木工科)に入学。

その頃は、「冬場はスキー、オフシーズンに木工」くらいの甘い将来図を
思い描いていたのかもしれません・・・

専門校時代に習作した
シェーカー様式の「ラウンドテーブル」

  模写することはできたものの、
  当時、シェーカー家具の持つ
※必然の形  を読み解く力はありませんでした。

                   ※カメラの三脚同様どんな場所に設置しても 安定する三本脚。
                   (蝋燭から 火災を防ぐための知恵)
                      脚のアールは、 
                      シェーカー教徒が清掃時に使う箒(ほうき)が入り易いデザインに。
 
                      単純な形を「シンプル」と敬称されがちですが、
                      必然性に導かれる真の意味を確かめるためにシェーカー家具を習作。


冬はスキー場、
夏は木曽駒ケ岳(中央アルプス)登山口にある山荘で働きながら、
何とか一年間の学校生活を終えたものの、
現実に直面する僕を待ち受けていた極貧生活。
専門校を出たとはいえ、
半人前にも到達していない腕前ゆえ、
直ぐに家具の注文など入るはずもありません。
(なのに独立?)       なりは貧乏でも、
                                    心晴れやかに生きることって、
                                    本当にできるのかも試してみたかった・・・

(おかげ様で貧乏まで怖くなくなり、いまだに続けております・笑)

標高1000ⅿ、
冬は氷点下20℃になる「ポツンと一軒家」で、
春の山菜、秋のきのこ、
夏は畑を耕し、
冬は保存食で生き抜き、
時折、心配する母親や友人から届く電報で
生存確認されながら、
手持ちの手道具で自宅で使うための小物を連作していたのでした。

情報を一切遮断した寒村での空白の時間(約1年半の年月)が、
ぼくには必要な時間だったのかもしれません。
電話も新聞もテレビも(もちろんパソコンなど)ない生活だったけれど、
豊かな自然に囲まれた森での暮らしは、
高度成長期以降の情報過多による弊害⇒流行過敏の「たが」を外すための
(木工家を志すための)準備期間だったようにも思えます。

半自給自足の生活を続けるうちに、
部屋に収まりきらないほどの作品がたまり、
置場に困った僕は、
次の作品を置くための場を空けたい!と、
無謀にも、個展を妄想し始めるのでした。

30才の頃です・・・
                       
              (つづく)

















クラフト~遠い日の記憶

大学卒業後、
スキー場の近くに住みたくて、
学生時代を共に東京で過ごした高校時代の友人と三人で、
岡山と鳥取の県境に広がる蒜山高原に土地を買い、
セルフビルドの山小屋を建て始めます。

たしか、「棟上げ式」の日だったかと記憶していますが、
ふらりと姿を現した
ただならぬ 風貌の男性から
「近くにアトリエがあるから寄ってらっしゃい」と誘われ、
のこのこ ついて行ったのが、
その後 30数年 慕うことになる生涯の師との出会いに。

絵を描く合間にアトリエで木彫を愉しむ
画家の背中越しに見えた小鳥の表情に、

ぼくは釘付けになってしまいます。

 「小鳥の表情を1羽づつ変えることで美術と工芸はひとつになる。
    それがいわゆる『クラフト』と呼ばれる分野の仕事だろう。
    量産品との違いは、
    何羽削っても尽きることがないってことなんだよ。」

彫刻刀片手に、
諭すように話しかけてくれた画家の言葉が、
ぼくの心に突き刺さります。

一見、同じ鳥のように見えるけど、
並べて見ると、
顔の向きや表情が一羽づつ異なっている・・・
どこか かわいらしさを感じる手仕事ならではの奥義を、
『尽きることがない』という言葉に織り込んで、
わかり易くぼくに教えてくれたのです。

当時、工芸店や古道具屋を巡っては、
お気に入りのアイテムを集めることに夢中だった自分が、
初めて 作り手側のモノの見方に触れ、
『クラフト』という世界に関心をいだいたその日から
蒜山への「アトリエ通い」が始まります。
3~4年経った頃だったでしょうか?
画家の先生からの勧めもあり、
ぼくは木工を学ぶために信州へ旅立つ決意をします。
まだ、木を削る技術さえままならぬヒヨコでしたが、
「近くにスキー場さえあれば、生活はどうにかなる!」
という軽い気持ちで
スキー用具と着替えを車に詰め込み、
学生時代から合宿や大会で馴染みのあった白馬へと向かいます。

26才の時でした・・・

(つづく)

飾らない家具

個人的な話ですが、
「ライフスタイル」という言葉を口にすることを控えています。

「時代と共に変わりゆくライフスタイル」
「新しいライフスタイル」
「流行りのライフスタイル」等々、

「ライフスタイルを替える」という言葉が、
家具の買い替えを迫る時の常套句として使われる場面をこれまでも見てきたからです。
ほんの半世紀ほど前まで、
普遍的な木組みの家具を丁寧に作っていた誇り高き職人たちが、
経済主義(使い捨て主義)の名の下で
次々と姿を消し、
見映え重視で、買い替えることを前提として作られるネジ留めの家具が台頭しています。

かつての職人達が誠実に作った証に刻印した「謹製」印を
復刻させたい気分になります!



いつの時代も愛される普遍的な家具は、
これといった特徴(顔)があるわけではありません。


いくら丈夫に仕立てても、
「好み」が分かれるような家具は、
特に、世代が引き継がれる時、
買い替えの原因になりかねません。

決して目立つことはないけれど、
失うと、
寂しさを覚えるような家具でいい。

家具を引き継ぐ時、
使い込まれた家具に刻まれる「家族の時間」ほど美しいものはないことを知るための。

























互いをリスペクトすることで生まれる形

近所付き合いしている陶芸家の伊藤環さんと
コラボした「塩壺」           


蓋の形を一点づつ変え



普通の形の中に遊び心を取り入れて



きのこのようなフォルムに仕立てたり



珍しい樹種や



銘木をさりげなく取り入れてみる ※全て一点もの(完売済み)

互いの信頼関係あってのアドリブを
楽しんだあとが、
形に表れていたような気がします。

プロフィール

HN:
山本美文アトリエ
性別:
非公開

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