アンバランスなバランス

子供の頃からの夢を実現している人。

奈良でギャラリーとカフェを営んでいる石村由紀子さんが、
子供の頃のノートに
「将来の夢は、お店をひらくこと! 店の名前は【くるみの木】」
と 書き込んでいたというのは有名な話。

もちろん 
家族の協力あっての夢の実現だったのでしょうが、
寄り道と道草ばかり繰り返してきた我が身を振り返ると、
夢を諦めない強い意思の持ち主に出会う度、
感心したり、ため息をついたり。

子供の頃の自分はと云えば、
「鉄腕アトムになりたい」という非現実的な夢は
持っていたかもしれないけれど(笑)、
その夢を現実的な夢に結ぶことはできなかった。
そもそも、
夢を追いかける術(すべ)を持ち合わせていなかった僕には、
他人(ひと)との出会いの中でしか
自分の岐路さえ探せなかったのだ。

速さを競うバイクのレーサーに憧れつつ、
時速100キロを直に体感できるスキーを
体得しようと決めたのも
友人からの誘いだったし、
ものづくりを志すきっかけも、
ひとりの画家との出会いから始まった。


木工の世界にせよ漆芸の世界にせよ、
伝統に基づき、王道を歩む人達がいる。
職人気質を磨き上げ、
坦々と仕事を進める名人とも出会ってきた。
でも、
未だ 我が道の定まらない僕は、
ひとつのジャンルやカテゴラリーの中で
生きていけるタイプの人間でもない。

身体を使って美しさを表現する基礎スキーの世界にも
お手本になる教本があった。
いわゆる「型」(かた)。
「型」に従って 
スキーの「いろは」が丁寧に書きこまれている「全日本スキー教程」。
その教本に従えば、
迷うことなく技術の上達は望めるかもしれないけれど、
「型」から入ることが苦手な僕には、
 技術論に重きをおく教本より
 ヨーロッパ諸国のスキーメソッドの方が魅力的に映った。

「速いものは、美しい」というイタリアのスキーの実践に
「型」は当てはまらない。
コントロールできる限界のスピードの中で、
必然性を持って美しさは姿を現わすと教えられるから。
「型」から覚える動作や所作ではなく、
 鍛錬をつむことで
 無意識に生まれてくる自然な動きの中に美が宿る という考え方。

スキーの究極の美しさは、
ハイスピードで宙(コブ)に飛ばされた時の
無意識のリカバリーに伴うバランス感覚(身体動作)に
見てとれる。
「型」からだけでは決して修得することのできない
「アンバランスの中のバランス」感覚。
そのバランス感覚は、学ぶものでなく試されるもの。
(日頃のトレーニングの質が問われる瞬間なのかも)

ものづくりの世界にも
無意識を連想させられる言葉が存在する。
「手で考える」という職人気質の信念とも重なる用語。
勝手に(無意識に)手が動くようになれば、
あれこれ考える必要もなく手仕事は進んでいく。

職人と作家の違いを問われれば、
「手で考える時間を極めていくのが、職人技」で、
「手で考える時間に詩的なエッセンスを織り込むのが、作家性」
と答えることにしている。
どちらにしても、
ほぼ同じ道(手で考える時間)を歩んでいくのだ。
ただ、職人は道草せず、
作家は、そのエッセンスを得るために寄り道しちゃう。

「人生に無駄な時間はない」という言葉の意味合いが、
優れた職人を志す人に向けての格言ならば、
「無駄な時間(寄り道)を大切に生きる」という格言?が
作家向けに あっていいのかも(笑)。

道草の途中で感じる絵空事や詩情を
作品に織り込むことがオリジナリティーに繋がると信じている僕は、
白銀の世界で覚えた
「アンバランスなバランス」感覚を
漆の世界に呼び込みたいと願うようになっていく。

技巧と偶然性。
意図して形を成形する作為と
意図せぬ偶然性から呼び込む無作為を
ひとつの形の中に表してみたい。
伝統だけに縛られず、
自由に絵筆を走らせる画家のように
軽やかに、
そして、そこに自らの思いを馳せながら。

       山本美文






「ほぼ日」で連載された伊藤まさこさんの
「白いもの」シリーズが1冊の本に。


丁寧にお礼の言葉までいただき、恐縮してます。
本の中では、
伊藤さんが普段使いしてくれている白漆のボウルも
掲載されています。

 伊藤まさこ「白いもの」 (マガジンハウス社より発売中)





























安藤忠雄「木の殿堂」

連日の猛暑に耐えかねて、
兵庫県の北部、香美町まで避暑に出掛けてきました。
標高650メーターに建つ「木の殿堂」は、
建築家・安藤忠雄による設計。



【安藤忠雄=コンクリート打ち放し】
といった先入観にとらわれずに全体像がとらえられる分、
建築家の意図するコンセプトや理念が 
より鮮明に伝わってくるように感じます。


アプローチから素晴らしい!






外壁のディテールは、
ピラミッドのよう。








建物の中心からは、空が見上げられます。








建物内では、
世界の木の建築物の模型の他、
木の生活具や工具が展示されています。
(写真許可願いを書けば、建物内の撮影・可)

館内で関心深かったのは、
設計者の描いたスケッチ画。





場所のもつ力を感じ取りながら
自らの建築物を自然に融けこまそうとする力学と
人間の創造力を膨らまそうとする力学がせめぎ合って、
ひとつのかたちが導き出される設計の過程
(振り子の原理)まで感じとれます。
建築物は、
小さくなればなるほど、
設計者の意図するコンセプトも凝縮されていて、面白い。



自然と共有していることを感じ取れる場を設計するのが、
建築家の仕事なら、
森と暮らしを直に繋ぐのが木工の仕事。

「木の殿堂」内は、
シェーカー・ジャパンの家具が使われていました。



遊具広場には、シェーカー・ジャパンの椅子の他に
リートフェルトの椅子(写し?)と
安藤さん御自身がデザインされた
ハイバックチェアも並べられていました。



オリンピックメインスタジアム問題の
火の粉を浴びている安藤さん。

そもそも、コンペはデザインを決めるための審査。
一般的に値段交渉は、
選ばれた建築家(事務所)と施主(国)が進めること。
予算が合わなければ、当然
デザイン変更だって応じてくれた筈です。
ところが現実には、
時間の経過と共に予算が膨らんでいったという・・・?

一体 この公共事業(予算を膨らますこと)の
裏で「いい思い」をするのは
誰だったのでしょうか?

お金に群がる人間の欲とスポーツマンシップは、
本来 水と油のようなもの。
オリンピックの理念に従うのならば、
既存の施設で
オリンピックをもてなせば、
要領を気にしなくても良かったはず。

格好ばかり調(ととの)えてみても、
「よそいき」の出で立ちは、成金趣味で格好悪い。

感動は装いとは別の場所、
いつだって
競技場のピッチ上で生まれるのですから。






















真夏の楽しみ

辺り一面が緑に覆われ、
工房の窓にうつる木々でさえ眩しい季節。


  そんな太陽の下で花を咲かせるオクラ             

    鑑賞するために育てた花よりも
    野に咲く花のほうにひかれるのだけれど、
    野花の少ない真夏は、
    畑に咲く花に癒される。



トマトの花だって、ほら

     こんなに可憐なのです。


収穫ばかりに気をとられて、
あまり注目されることすらないけれど、
そっと咲かす花の命があってこそ
野菜だって実をつけるのです。




工房からすぐの小さな湾では
一年で最も潮の高い日に
海の安全と五穀豊穣を祈願する
「亀石祭り」が開催されました。



湾内にある亀の形をした岩が
海水に浸かる満潮時に合わせて
地元の子供たちを乗せた2艘のしゃぎり船が
湾内を行き来し、
船から直接 亀石神社に奉納する恒例の行事です。




 
先人たちの知恵に学び、暮らしに「涼」を呼び込みながら
夏を味方にしておきたいものです。
      






























瀬戸内の「タイタイ」

「タータ」と云えば、お風呂のこと。
「トト」は、お魚。
方言以外に
岡山のおかあさんが まだ喋ることのできない赤ちゃんに
風呂や魚の名称を教える時の呼び名として使われる言葉の数々。
(今ではそんな呼び名を知らない若いママも多いのでしょうが・・・)

「パパ、ママ」同様、同じ文字を続けることで
初めて言葉を発する赤ちゃんにでも発音し易く考えられている。
ただ、
それらの言葉は、
赤ちゃんに教えるために用いられる呼び名なので、
子供が成長するに従って
「トト」は「タイタイ」に変わり、
やがて「サカナ」と呼ぶようになる。
成長魚ならぬ成長語だ。

注目すべきは、「タイタイ」という呼び名。
関東で魚の横綱といえば 
鮪(マグロ)の名が真っ先にあがるのでしょうが、
西の横綱は、「鯛(タイ)鯛(タイ)」
祝いの日にふるまわれる刺身といえば鯛が一般的だし、
スーパーのお刺身盛合せに鯛が入っていないと
売れゆきが悪いとも聞く。

木工の人間国宝(無形文化財)黒田辰秋が
岐阜の付知に滞在した折、
なぜ地元の良材の桧を使わないのか
正すように語った例え話がある。
「欅(ケヤキ)が鮪なら、桧(ヒノキ)は鯛だ」
誰にでも解かり易くなぞらえた黒田辰秋の言葉は
見事に本質を捉えているから、
実に洒落っ気があって面白い。

話を「タイタイ」に戻そう。
岡山の訓練校(木工科)の先生に
有名な「釣りバカ先生」がいて、
工房からも程近い港に自前の船を停泊させている。
中学校時代の後輩でもある彼は、
物心つかぬうちから漁船に乗って育ったという強者。
彼の育った小さな漁港では漁師の数も減っているようですが、
漁師を横目に、威勢よく漁にでかける彼の姿は
さびれゆく漁港で どの様に映るのか聞いてみたいほど。
休日になれば、
小豆島周辺の海や和歌山沖にまで船を出すという。

今日も
「山本さん、釣れたから取りにおいでぇ」との連絡が入った。

ヒエー!60㎝の天然もの(鯛)、
2~3日は鯛づくしだ。

「酒とバラの日々」ならぬ「酒とタイタイの日々」










清掃から学ぶこと

「かたづけができないようでは、事故(怪我)も避けられない」
と 清掃の大切さをすり込まれたのは、
専門校時代の教官からでした。

刃物を扱う木工は、常に怪我(けが)と背中合わせ。
大型の木工機械に至っては、
一瞬で指を切断するような事故だって起こりうる。
幸い僕は、木工機械による大怪我を起こしていませんが、
肝を冷やすような出来事は
これまでにも何度かありました。

そんな日は、
工房のかたづけと清掃で
かつての教官の言葉を思い出すことに。







静謐な暮らしの在り方を示した
シェーカーの人々の暮らしに学んだことは、
簡素なデザインや生活スタイルだけではなく、
日々の暮らしの中に
人間らしい室礼(しつらい)を
落とし込んでいたという点にもあります。

日々の清掃を重んじたシェーカー教徒は、
部屋の壁に箒(ほうき)を吊るし、
常にそうじすることを忘れないよう心掛けていました。
清掃を促すために
壁の箒を見える場所にかけていたのでしょうが、
僕には、箒そのものが
そうじの大切さを示唆するオブジェのように見えちゃうのです。

洋書「SHAKER STYLE」より



安全の保持という観点から、
僕の工房でも
シェーカーの室礼に学び、
入口脇に箒を吊るすことに。




朝の清掃に始まり、かたづけで終わる工房の一日。
そうじの仕方は、ひとそれぞれ。

そうじに対する姿勢には、
人それぞれの性質まで見え隠れしちゃう(笑)。
毎日決められたことを時間内にきっちりこなすひともいれば、
曜日によって場所を変え、
そうじの仕方も変えるひともいる。
ただ、
工房から独立して木工家を志す弟子には、
単に安全という観点からだけではなく、
そうじひとつとっても、
工夫を持って想像力を培ってほしいと願うのです。











プロフィール

HN:
山本美文アトリエ
性別:
非公開

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