漆工房での日々


工房脇の坪庭が鮮やかな梅雨の色に。

室(ムロ)の湿度と温度を調整しなくても
漆が硬化するこの季節を喜んでいるのは、
塗師か、恵みの雨を待つ農家くらいなのかも?

6月27日から始まる岐阜市「本田」での個展に向けて、
早朝から漆工房に入り、
深夜まで室の番人の如く張り付いているので、
工房で暮らしているといっても疑われないはず・笑
(仮眠用の折り畳みベッド&寝袋も常備)

四半世紀使ってきた漆工房の机には、

気がつけば、
満天の星が描かれていた(笑)


長く使ってきた道具は、

使い込めば使い込むほど
美しさを帯び、

パン屋の景品でもらった真っ白なスープ椀?でさえ、
漆工房の道具にすれば、

こんな色に染まっていく。

そろそろ作り直そうかと思っていた
「漆の練り台」を

「盆と敷膳」がテーマの
岐阜での個展に特別出品するつもりですが、
これまで道具を展示したことはないので、
売値をどうすればいいのか?さっぱりわからず、
毎日、練り台とにらめっこ。






個展のお知らせ

4月・5月の展示会は、
オンラインのみでの販売になったため、
対面してご説明できず残念でしたが、
普段出向くことのできない遠方からの注文もあり驚きました。
厳しい社会状況においても、
工芸を愉しんで下さる皆さまに、
心より御礼申し上げます。

「三密」を避けてのかたちにはなりそうですが・・・
6月末からの個展に向け準備しております。


2020.6.27(土)~7.12(日) ※(木)・(金 )休み
           山本美文展       岐阜市「本田」


                                                                                                漆練り台 / 白デルフト小壺   
                                                                                                     写真提供「本田」

(場所)「本田 」   岐阜市上太田町1-7 醸造会館1F
(在廊日)7 / 4(土)

本田さんのブログ(hondakeiichiro.blog58.fc2.com)に
10年前(開店前)の日の出来事が書かれていました。
あの日のことは、僕もよく覚えています。
もう10周年なんですね。
たった10年という歳月の中で、
「本田」は、有名になっちゃいましたね~~~(凄い!)
自分の事のように嬉しいです。
10周年のお祝いも兼ねて、
本展に向けてのパンセ(詩)を綴りました。
恵さんが冊子にまとめて、会場に置いてくれるようです。
(本田ご夫妻のまえがき&編集後記も読んでみたい!)


今回の展の宿題は、「盆と敷膳」
本田さんの審美眼が選び出す国内外の
骨董(器物)との組み合わせを楽しみに
盆と膳に向き合っています。





                                                        白漆角膳 / 平佐焼白磁急須、阿蘭陀煎茶杯
                                                                         写真提供「本田」





骨董の世界では、
現代モノを使うことがタブー視されがちですが、
時代のある「下手(げて)」と現代の「下手」を組合わせて、
「上手(じょうて)」に挑んでみたいですね!













クラフト~9(約束)

将来の夢を、自らの力で切り開ける人だっている。
もともと持っているエネルギー量の違いで、
羽ばたけるタイプの人たちだ。

僕のように、エネルギーほぼ0カロリーの人間は、
羽ばたくことさえできない「他力本願タイプ」・・・
木工を始めたのだって、
偶然出会った画家のアトリエで、
木彫の小鳥を削る先生の姿に憧れたのがきっかけだったのだから。
以来、先生が天寿を全うされるまでの
約35年の間に教わってきた「美意識」を
僕なりに解釈して(引き継いで)きたに過ぎません。
アトリエで交わした会話や先生との約束を果たしたくて
今日も僕は木を削り、漆を練っています。




ものづくりを長く続けてきた職人の言葉を求めて
時折「座右の銘」を尋ねられることがあります。
子供の頃から目標や夢を持ったことのない僕は、
いつも戸惑い、
う~~~~~~~ん、「座右の銘」というわけではありませんが、
幼稚園:年長組の時の先生から教わった
「あいさつをしましょう」
「ともだちをたいせつにしましょう」
「やくそくをまもりましょう」
この3つだけを守ってます!
と答えるのですが、
たいてい次の話題に振られてしまいます・笑


慕っていた画家のアトリエの片づけ(遺品整理)している時、
奥様よりいただいた木彫の小鳥用の型紙。
その型紙を僕の工房に持ち帰ったものの、木取りさえできずにいました。
憧れの存在を形にしてしまうと、先生との距離感まで縮まってしまいそうで(怖くて)・・・
そんな意気地なしに、
ある日、天からの啓示が降りてきます。
懸命に頑張るひとりの少女の話を耳にした時、
「その娘(こ)の掌に小鳥を持たせてあげなさい」
という先生からの言葉が、確かに聞こえてきたのです。
その瞬間、
僕の中に、一羽の鳥が浮かびます。

先生に薦められて移住した
信州の山岳に棲息する雷鳥の姿でした。

(おわり)





























クラフト~街の記憶・8

岡山に帰郷(工房移転)した25年前、
「民芸」の倉敷、「伝統工芸」の岡山の知名度は既に全国区でしたが、
「クラフト」という言葉を耳にする機会は少なかったように思います。
地域に根ざした民芸、技術の粋を結集した伝統工芸に対して、
「クラフト」ってどのような印象を持たれているのでしょう?
僕は、何も制限されない手仕事のことを「クラフト」と呼んでいます。
(だから、捉えどころがない分野なんですね・笑)

2006年、
「フィールドオブクラフト倉敷 」の立ち上げにあたり、
ご挨拶がてら地元のギャラリーを廻ったおり、
作り手が直に作品を販売するクラフトフェアが受け入れられると、
ギャラリーが不要になることを懸念する率直なご意見も頂戴しました。
僕は、実行委員ではありましたが、
ギャラリーに育ててもらった一作家でもあるので、
これから先も、ギャラリーと共に(手を携たずえて)
歩んでいきたいと思っています。
クラフトフェアは工芸の裾野を広げる役目。
クラフトを身近に感じてくれるファンを増やすことで、
作家の個展会場(ギャラリー)に、 足を運んでくれるお客様が増える筈です!
と説得。

ところが、僕の描いていた思惑通りにことは進まず・・・

クラフトフェアは浸透するものの、
クラフトフェアを愛するファンの方々にとっては、
ギャラリーに敷居の高さを感じちゃうのか?
「クラフトフェアのファン」=「ギャラリーのファン」には
なかなか結びついてくれません・・・
回を積み重ねるごとに、
ギャラリーサイドと交わした
「クラフトフェアからいずれギャラリーに」という約束を守れていないことに、
僕の心は押しつぶされそうになっていきます。

クラフトフェアとギャラリーを繋ぐ何かが足りない・・・

そんな悩みをいだいていた頃、
「フィールドオブクラフト倉敷」の会場に、
(株)「日本オリーブ」の会長だった故・服部恒雄さんが訪ねてくださいました。
現在の「瀬戸内国際芸術祭」の先駆けとも言われている
「牛窓国際芸術祭」(1984~1992)を主宰されていた 服部さんから
美術を牛窓の街に取り込んだ 意図についてお話を伺い、
工芸を生活文化に結びつけるヒントをもらいました。

体調不良でフィールドオブクラフト倉敷を脱会した数年後、
牛窓の町家をギャラリー空間に見立て、
「フィールドオブクラフト倉敷」と「ギャラリー」の繋ぎ役をコンセプトに
立ち上げた「牛窓クラフト散歩」は、
「牛窓国際芸術祭」に学び、
僕たちのできる範疇で構想した街角クラフトフェアです。

服部恒雄さんが美術を牛窓の街に落とし込んだように、
小さな港町を工芸の色に染めていくことで、
工芸の敷居を下げ、
クラフトフェアとギャラリーを繋ぐための小さな試みです。



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                                           撮影:牛窓クラフト散歩実行委員会
                 
(つづく)








































クラフト~忘れられない記憶・7

出先の病院から岡山に帰りはしたものの、
一時間仕事すると、
一時間寝込むような日々が続いていた㍻23年3月11日、
宮城県沖130㌔を震源とする東日本大震災が発生します。

4か月経ってもなかなか体調は戻らず、
50代を生き抜く自信さえ失っていた僕は、
ベッドから眺めるテレビの映像で震災のことを知ります。
自衛隊の現地入りに続き、
日を追うごとに集まるボランティアの懸命な姿を見ているうちに、
それまで奉仕活動で身を粉にしたことがなかった自分でも
必要とされるならば(当時は「生きてる間に」と思ってました)、
手仕事の品で被災地復興の役を担いたいと思い始めます。
すぐに地元の作家や
ギャラリー店主にも相談を持ちかけ、
賛同してくれた人たちと立ち上げた
「岡山から被災地に手仕事を届ける会」。

そのうちのメンバー2人が、
先に気仙沼に出向き、
現地からの要望を聞き、岡山の作家に協力要請を案内します。
その要請に応えてくださった
県内の作家95名から届いた作品(790点)を持って気仙沼に。


                                                                                                                (三陸新報より)

現地での人との新たな出会いから、
夢を失いかけている気仙沼の子供たちに、
未来への希望が持てるような取組みはできないでしょうか?
と相談され、
岡山と被災地の子供たちをハートで繋ぐワークショップも
計画に加えます。

岡山市立芥子山小学校の6年生に、
岡山の県木(マツ)でハートの片割れを削ってもらい、
気仙沼(同学年)の子供たちに向けて
メッセージカードを書いてもらいます。

2012.10月、
気仙沼市立新城小学校での公開授業。

宮城の県木(ケヤキ)を用いて
もう一方を削ってもらい、
磁石でメッセージカードを挟んだ「ウッドハート」完成させます。


子供たちの心をひとつに結ぶかたちに願いを託し、
岡山と気仙沼の未来を繋ぐ試みでした。





「岡山から被災地に手仕事を届ける会」の主な活動内容
2011.   6       会の設立
                 .   9      実行委員をかねる作家の作品30点を気仙沼に持ち寄り現地調査
                 .10     被災地からの要望を受け、県内の作家への呼び掛け
                 .11     実行委員をかねる作家7名のチャリティー展、売上全額を活動資金に
                 .12     手仕事の  品790点(作家95名分)を気仙沼に届ける
 2012 .    3     活動報告会
                              被災地から岡山に避難された方々に手仕事の品を届ける
                .     8      被災地から岡山に避難された親子対象のワークショップを開催
                 .   9    岡山市立芥子山小学校での「ウッドハート」ワークショップ
                  .10   手仕事の品を気仙沼に届ける(3回目)
                             公開授業(気仙沼市立新城小学校)で、「ウッドハート」を完成させる
                  .12   活動報告会



現地に赴き、
津波で家族を失った人たちからの生の声を聞いているうちに、
「(震災のことを)忘れないでほしい」という思いと、
「家族の死を忘れ(受け入れ)なくては生きていけない」といった
深い悲しみに苛まれている当事者の心境を告白され、
僕たちは言葉を失いました。
岡山に帰れば、
「震災のことを忘れてはいけない」を訴える言葉は溢れていたけれど、
「忘れなくては生きていけない」と自分に言い聞かせながら
懸命に明日に向かおうとしている人たちのことを思うと、
軽はずみに支援を続けることばかりを訴えていていいのだろうか?
と思うようになるのでした。

(つづく)

プロフィール

HN:
山本美文アトリエ
性別:
非公開

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